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神戸はどのような街でしょうか。
神戸は、日本の大都市には珍しく海と山があり、その距離がとても近く、両者は繋がっています。
例えば、高取山は昔から神戸の港を行き交う舟の目印になってきました。
保久良山の「灘の一つ火」も、真っ暗な夜の海を照らし、海の安全を守ってきました。そうした海と山の間に市街地が形成され、市街地から至近の場所には六甲山や里山農村地域が広がっています。
先人たちは、神戸の自然を大切にし、育んできました。草創期の神戸市政は、当時禿山だった六甲・摩耶山の植林を開始、水道を暮らしの中に行き渡らせました。長い年月をかけて緑滴る山々に変貌した六甲山系は、災害から市民生活を守り、人々に親しまれています。
海と山があり、美しい自然環境に恵まれた神戸は、幾多の試練を乗り越えてきた街でもあります。
約100年前、世界中で大流行した感染症「スペイン風邪」は、すでに国際港湾都市であった神戸でも広がり、多くの市民が犠牲になりました。当時の神戸市政は、全力で市民の救済と感染防止に当たるとともに、都市計画事業を積極的に実施し、100万都市への道筋をつけました。
1938年、阪神大水害に見舞われた神戸市は、国の支援を受けて砂防事業を加速させ、国・県・市が一体となった災害防止事業は今も続けられています。
日本の大都市は、京都を除き、戦争末期に空襲を受け、多くの無辜の人命が失われましたが、中でも神戸の市街地焼失面積の割合は最大規模であったと言われます。
戦後、焼け野が原になった神戸では、復興事業が進められ、神戸はふたたび日本を代表する大都市として復権を果たしました。
そして、1995年の阪神・淡路大震災。
神戸市民は互いに助け合い、励ましあい、内外からの支援を受けながら、街を蘇らせました。震災復興事業が進められ、若き日に戦災復興事業に携わった中堅・幹部職員が事業の企画・実施をリードしました。
2012年の東日本大震災では、神戸の市民、企業、行政がいち早く被災地に駆けつけ、その後も息の長い支援が続けられています。神戸市からは、かつて震災復興事業に携わった職員が当時の地震を知らない若い職員を率いて被災地に入り、被災自治体のみなさんと一緒になって復興のために汗を流しました。
このように幾多の困難を乗り越えてきた神戸の歩みを踏まえると、神戸は神戸のためだけに存在するのではなく、我が国全体のために、そしてグローバルな見地から各地域に貢献する街でありたいと思います。
震災後、復興プロジェクトとして神戸医療産業都市構想がスタートしました。ゼロからの出発でしたが、現在では、我が国最大のバイオメディカルクラスターとして成長を続けています。
神戸医療産業都市は、コロナウイルスへの対応でも存在感を発揮しています。スーパーコンピューター「富岳」はウイルス飛沫感染の予測を行い、感染予防に活用されています。医療産業都市で育ったメディカロイド社は、全自動のPCR検査ロボットを開発・実用化し、安全で効率的なPCR検査を実現しました。T-ICU社は遠隔医療システムを構築、コロナ患者の治療に活用されています。神戸医療産業都市は、ポスト・コロナを睨みながら、グローバル社会の中で人々の生命と健康を守るために貢献していくことが期待されています。
神戸は、1868年の開港以来、海と山に囲まれた豊かな自然環境の中で、国際性や多様性を育みながら、新しい価値や生活様式を創造してきました。様々な困難を乗り越えてきた神戸だからこそ、国内外に貢献し、そのことによって、市民が神戸を誇りに思うような街になることができればと願います。
2021年4月に『神戸2025ビジョン~海と山が育むグローバル貢献都市~』を策定しました。ご一読いただければ幸いです。