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第8話 河原兄弟の討ち死に

最終更新日:2020年10月9日

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今から八〇〇年あまり昔。大輪田泊(兵庫港)にじんどった平家は、東の生田の森と西の須磨一ノ谷にとりでを作って、京の都の源氏と対立していました。

源氏の方では、源範頼の軍勢が京都から山陽道を進んで生田の森に近づき、弟の源義経の軍勢は都から兵庫県の中部を西に横切って加古川にそって南に進み、明石方面から海辺を東に進んで西から一ノ谷をせめようと計画しました。両軍は、総こうげきを二月七日の夜明け時と決めてありました。

生田の森のこうげきに向かう源氏の中に、河原太郎と次郎という兄弟がありました。「家来が多くいれば、家来の立てた手がらでわれわれの名も有名になろうが、私たちにはあまり家来もいない。

そこで、次郎よ、私がまっ先に生田のとりでにせめこんで、名のりあげるから、そなたにはここで証人となって、河原一族の武くんを人々に伝えてほしい」

「いえ、たった二人きりの兄弟。兄上だけを討ち死にはさせられません。私もともに・・・」

「それではともに討ち入ろう」

心をきめた二人は、生田川をわたって平家のじんにしのびこむと、大声をあげました。

武蔵の国の住人、河原太郎と次郎、生田の森の戦いの先じんをつかまつった


味方の源氏も敵の平家も、多勢の平家の中に二人でせめこんだ兄弟の勇気におどろきました。しかし、やがて多勢の敵と戦ううちに、二人の刀は折れ矢もなくなってしまい、ついに兄弟は討ち殺されてしまいました。

このあと源氏は全軍で平家のじんにせめかかり、ついに平家は敗れてしまいました。戦いのあと、近くの人々が河原兄弟に建てたほこらは、今も三宮神社の境内に立っています。

一説には、神戸名物瓦せんべいの名は、この河原兄弟のカワラにちなんだものだともいいます。

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