最終更新日:2020年10月9日
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平安時代から葺合の山手・中尾の村人は、毎年早春に若菜をつんで、京都の御所にとどけていたので、一帯を若菜の里と呼ぶのです。
しかし、寿永三(一一八四)年の源平の生田の森の戦いで、葺合のあたりもあらされ、若菜の里もやけ野原になって、御所へ若菜を送ることもとだえてしまいました。
三百年もたって、室町時代の文明年間(十五世紀後半)に浄土真宗をひろめようと各地をまわっていた蓮如上人が、この中尾の泉隆寺にとまったことがありました。
「ほう、昔この地にそんなしきたりがあったのか。ぜひ復活させて、また御所に若菜を送られてはいかかじゃ。私も協力したいが」
こうして、若菜を送る風習が復活しました。人々は十二月二十日に生田の南の浜に出て、新鮮なイソ菜をつみとり、泉隆寺に集めて京都の仏照寺に送り、そこで鏡モチをそえて本願寺におさめ、そこからあらためて御所にとどけてもらうのでした。
こうして、このあたりはまた若菜の里と呼ばれるようになりましたが、戦国時代の終わりごろ、織田信長が花熊城を攻める戦をした時、またこのあたりは戦場になってあれてしまい、またまた若菜を送るしきたりは、すたれてしまったということです。