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BE KOBE神戸の近現代史

兵庫開港(神戸開港) (詳細)

兵庫港

兵庫港の歴史を振り返ると必ず出てくるのが、大輪田泊である。歴史上の文献で大輪田泊が初見されるのは弘仁3年(821)で、日本後紀に国営による修築工事が行われたことが記載されている。その後、平清盛によって大輪田泊の大規模修築が行われ、日宋貿易の拠点港として栄えた。彼は承安3年(1173)には、「兵庫津」と名付けている。平家の滅亡後は、東大寺の僧・重源により引き続き修築事業がすすめられた。室町時代には足利義満による日明貿易の拠点となり、その後応仁の乱の戦禍をかぶり大きく衰退したものの、江戸時代中期以降、灘の生一本の江戸送りが盛んになり、樽廻船や菱垣廻船によって物資が運ばれ、兵庫津は海上輸送基地としてにぎわった。

兵庫港は、和田岬により明石海峡の急流から守られた湾であり、海域の静穏が確保された「天然の良港」であったといえる。

兵庫港(神戸港)の開港決定

ペリーが黒船を率いて浦賀に来航し、安政元年(1854)には日米和親条約を締結した。この時、アメリカが日本の開港を強く迫った背景には、大きく次のような理由がある。一つは、アメリカから中国を結ぶ太平洋航路上における蒸気船の水や食料といった補給基地の確保及び難破船漂流民の救助をうけることである。二つに北太平洋で盛んにおこなわれていた捕鯨船の避泊港の確保である。そして三つに新たな市場の確保である。日米和親条約の締結により開港に成功したアメリカは、次に公使の駐在や自由貿易、開港場の増加等を他国より先駆けて優先利益を得るため、初代駐日総領事としてハリスを任命し、さらなる交渉にあたらせた。この交渉の過程で最大の問題となったのは、開港場・開市場の規定を含む条約第3条の検討であった。ハリスは開港場として江戸・大坂を希望したが、幕府側は拒否し、江戸の代わりに神奈川を、大坂の代わりに堺を代表とした付近の港を開港することを主張した。問題は、大坂の開市と堺を代表とした付近の港の開港であった。天皇がいる京都の近くであり、奈良の御陵にも近い大坂の開市と堺の開港は、孝明天皇が攘夷派であったこともあり、幕府を悩ませた。そのような中、対象に挙がったのが、近隣にある良港として有名であった兵庫港である。結局ハリスは、江戸・大坂は開市場とすることで幕府の主張に同意した。そして、安政5年(1858)に当時の大老井伊直弼と諸外国との間で安政の仮条約が結ばれ、兵庫(神戸)港は文久2年11月12日(1863年1月1日)までに開港する運びとなった。

ただし、実際に開港場となったのは、兵庫ではなく神戸である。それは、かねてより天然の良港といわれた兵庫港には、貿易の拠点ともあって既に背後地に人家が広がっており、公使や貿易商たちの駐在に必要な居留地を建設するための敷地がなかったことや、住民に外国人の出入りの忌避感があったためである。それに対し、旧湊川を挟んで東側にあった神戸には、大きな船も受け入れられる大水深の港が建設できる海岸が広がり、網屋吉兵衛により船舶修理のための舩熮場(ふなたでば)が建設され、背後地は居留地を建設できるだけの広大な畑地・砂浜があったからである。なお、元治元年(1864)にこの舩熮場(ふなたでば)を利用して、勝海舟によって海軍操練所が造られている。

条約の締結から開港まで

攘夷派は、幕府が朝廷の許可を得ずに条約調印したということに憤激し、また、安政6年(1859)7月規定通りに横浜・箱館・長崎の3港が開港となったことで、水戸浪士たちが大老の井伊直弼を殺害する「桜田門外の変」をはじめ、より過激な行動に及ぶようになった。

この結果、幕府にとって条約で定めた開港期日の延期は必至となった。そして、幕府は諸外国側への一層有利な条件での関税税率の改定を代償とし、文久元年にイギリス軍艦に使節を乗船させてヨーロッパへ派遣し、江戸及び大坂の開市とともに兵庫の開港を慶応3年12月7日(1868年1月1日)まで5か年延期させた。

国内では、尊王攘夷派の急先鋒であった長州藩が、攘夷の詔勅等を得てアメリカなどの軍艦を砲撃するが、次第に薩摩藩との反目・不和があらわれ、禁門の変により京都から追いやられ、また、アメリカなどの4か国の連合艦隊により下関を攻撃され、藩主の父子の服罪と償金300万ドルという報復を受けた。しかし、これらの事件は、排外攘夷が誤りであることや、勤王討幕のためには薩長の協力が必要であることを自覚させる機会ともなった。

4か国の連合艦隊の下関砲撃事件からいくばくもない頃、アメリカなどの公使が軍艦を率いて兵庫・大坂付近に来航し、通商条約の勅許を強要する姿勢を見せた。朝廷は、薩摩藩の上奏により兵庫の開港は認めなかったものの、通商条約の締結を承認し、4か国の連合艦隊は立ち去った。しかし、近接の都市大坂が諸外国に開放されることになったにもかかわらず、兵庫不開港となったのは、かつて理由としていた京都の御所及び奈良の御陵への近接性が既に理由とならなくなっており、倒幕の手段に利用されたと言える。

神戸開港

2度目の長州征伐の最中、第14代将軍家茂が21歳の若さで急逝して第15代将軍に慶喜が就き、また慶応2年末には孝明天皇が崩御して、明治天皇が皇位についた。この頃には、薩摩藩と長州藩が同盟を結び、イギリス人グラバーから武器を購入して幕府と対等な戦力を持ち始めた。それに対し慶喜は、フランス公使ロッシュより助言を得て、欧州式の政治・軍事体制を取り入れ、火薬製造や製鉄所の建設、鉄砲・大砲の製造、軍艦の購入など軍事力の強化も図った。慶喜は、朝廷側に兵庫開港の上申書を提出し、ついには参内して強く訴え、兵庫開港の勅許を得た。そして、慶応3年12月7日(1868年1月1日)、開港した。

兵庫開港の勅許後まもなく、大政奉還が決まり、また王政復古の宣言直前という中で、神戸港の開港式は執り行われた。式場外では諸外国の軍艦の礼砲が打ち上げられ、また、付近の村などは、住民たちの祝賀仮装行列や「ええじゃないか踊り」でにぎわったと言われている。

そのようなまちや通りのにぎやかさとは裏腹に、当時の神戸港は、兵庫奉行柴田剛中によって作られた新築の運上所(税関)の他3棟の倉庫、3か所の波止場と居留地の工事が一部行われていたのみであり、開港場とは名ばかりで貿易船の訪れも期待しがたい状況であった。また、開港式典から2日後には王政復古が宣言されて、倒幕勢力により京都でクーデターが起こると、たちまち幕府の人間は神戸から逃げだし、無政府状態となって港湾工事は中断となった。あたかもこの時に神戸事件も発生している。

その後、明治政府より東久世通禧が兵庫に派遣され、6か国代表との会見、王政復古の国書の交付、神戸事件の交渉が行われ、以降中断していた開港の仕事や町の秩序の回復などが明治新政府の下で進められることとなった。