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BE KOBE神戸の近現代史

市域の拡大 (詳細)

終戦の昭和20年(1945)、神戸市は「神戸市復興基本計画要綱」を定め、都市の性格を「国際的貿易海運都市」とし、これに付随して商工業都市、文化都市ならびに観光都市としての性格を併有するものとした。港都発展のためには、港湾機能を充分に発揮できるだけの背後地域と人口の保有が不可欠であった。そのため、市の東西部及び六甲山を中心とする北部の市町村を合併して市域を拡大すること、そこに職業構成や食糧配給、住宅・交通事情を考慮し、適当な配置で人口を保有させることが目標として掲げられた。当時の地方制度改革により特別市制実施の情勢が高まったことも、市域拡大の推進要因となった。こうして、神戸市は昭和21年(1946)に近隣町村との合併交渉を開始した。

一方、編入対象町村にとっては、編入により神戸市財政の恩恵を受けられることが大きな利点であった。伊川谷村をはじめとする明石郡6村とは、戦前に合併の仮調印を交わしながら、決戦非常措置令により合併中止となっていた。また、北部の山田村は、神戸市へ戦前に二度編入を申し入れていた。上記の経緯から、北部3か町村及び西部10か町村との交渉を進め、昭和22年(1947)3月に有馬町、山田村、有野村、神出村、伊川谷村、櫨谷村、押部谷村、玉津村、平野村、岩岡村を合併した。なお、大久保、魚住、二見の西部3か町村とは合併仮調印を結んだが、明石市と神戸市との合併交渉がまとまらなかったため、3町村と明石市との関係を鑑み保留となった。合併にあたり明石郡町村と交わした覚書をみると、交通施設の充実、屎尿配給、学校の設置や校舎の充実などが条件として挙げられている。編入対象町村側も、神戸市との合併により地域の発展に対応しようとしていたことがうかがえる。

他方、合併に対し慎重な姿勢をとる市町村もあった。御影町、魚崎町といった東部5か町村は、戦前より精道村(現在の芦屋市)と新市建設の構想を持っていたこともあり、合併交渉に時間を要した。しかし、昭和22年(1947)の編入でこれら東部地域を合併できなかったことは、国際港都としての神戸市の行く末を左右する大問題であった。また、昭和22年(1947)当時、特別市制度を導入した地方自治法が公布・施行され、特別市運動が一層盛り上がっていた。神戸市が特別市となり県から独立すると、合併がより困難になるとの見通しからも、早期の合併が望まれた。神戸市は昭和22年(1947)10月に再度申し入れを行い、合併交渉を再開した。

新警察制度の実施、教育権の自治体移管など、地方財政の負担増が予想されるに及び、御影、魚崎、住吉の東部3か町村側でも神戸市との合併機運が盛り上がった。そして昭和25年(1950)4月に御影町、魚崎町、住吉村が神戸市に合併した。本山村、本庄村については、昭和24年(1949)2月に芦屋市からも合併の申し入れがなされていたが、東部3か町村の神戸市編入が具体化するにつれ、両村でも神戸市との合併機運が高まった。こうして昭和25年(1950)10月に本山村、本庄村が神戸市に合併した。東部3か町村との合併にあたり、「東灘区」及び区役所の新設、灘銘酒の醸造の発展のための施設を設けること、区内警察署・消防署の設置、六甲山南麓に文化施設地帯を整備することなど様々な条件が取り決められた。後に合併した本山村、本庄村も同内容の覚書を採用した。

合併機運の高まりは有馬郡の3か村にも伝播し、昭和26(1951)年7月に道場村、八多村、大沢村を神戸市に合併した。上記3村に隣接する長尾村でも神戸市への編入熱が高まり、昭和26年(1951)4月の住民投票では賛成が98パーセントに達した。しかし、昭和28年(1953)に町村合併促進法が施行されると、県から有馬郡三田町、三輪町及び長尾村を一ブロックとする合併計画が示され、神戸市編入にブレーキがかかった。町村合併促進法は、小規模町村を適正規模に編成変えして自治体の行財政力の育成強化を図ろうとするものであったが、現実的には都市周辺の町村は小規模同士の合併を避け、大都市への編入を希望するものが少なくなかった。長尾村合併問題においては、昭和29年(1952)に道場町有志が神戸市会議長に合併請願書を提出して以後、交渉は順調に進み、昭和30年(1955)10月に神戸市に合併した。淡河村においても、当初、県側は別の村と合併させる計画を持っていたが、計画の変更により最終的に昭和33年(1958)2月、淡河村が神戸市に合併した。明石市・二見町などとの合併は頓挫したが、昭和16年(1941)に115.05平方キロメートルだった面積は、戦後の合併を経て昭和33年(1958)には529.58平方キロメートルとなった。こうして、神戸港と六甲山を抱えた特色豊かな現在の神戸市域が完成した。