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BE KOBE神戸の近現代史

生田川の付替えとフラワーロード

居留地が生田川以西に設けられ、居留地の外国人より生田川氾濫による水害を防止するため川堤を強固にするよう度重なる要望が出されていた。しかし、現地検分の上、政府は、工事には多額の経費が必要となる上に、完全な水害防止は不可能であり、堤防の修築よりも河川の付替えの方が効果的と判断した。この工事は、菟原郡(うばらぐん)熊内村字馬淵より同郡脇浜村地先字小野浜海岸まで川をまっすぐに最短距離で流すもので、明治4年3月に着工し、同年6月に竣工している。

そして、明治5年(1872)、生田川の付替工事によって生まれた旧生田川跡地(現在のフラワーロード)の一部が民間に払い下げられ、加納宗七及び有本明が落札した。両名は、旧生田川の河川敷を平坦化する工事を行い、その際、土地の中央に幅十間(約18メートル)の道路が建設された。東海道の大街道でも六間ほどの時代に、前例のない大道路であった。

紀州和歌山に商人の子として生まれた宗七は、材木商のかたわら国事に興味を持ち、京都の天満屋で紀州藩士三浦休太郎(みうらきゅうたろう)と新選組幹部の襲撃に関与するも失敗。宗七が逃亡先に選んだのが、奇しくも事件当日に開港を迎えた神戸であった。

大政奉還、王政復古の大号令等の時代の追い風を受け、設立した木材回漕会社は兵庫県御用達に選ばれるまでに成長する。明治4年、天井川となり氾濫の頻発していた生田川の付替工事が決定し、宗七も工事に協力。付替後、生田川跡地を共同購入した宗七は前述の道路を建設、神戸の骨格を造った。宗七はその他にも様々な社会事業を行い、明治20年に逝去。宗七の造成した土地は加納町となり、東遊園地には今も銅像が残っている。

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