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こうべキッズ百科:歴史(歴史上の人物とかかわり)

最終更新日:2019年11月1日

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平清盛(たいらのきよもり)

平清盛(たいらのきよもり)は、平安時代(へいあんじだい)の終(おわ)りごろ、1118年(ねん)(元永元年(げんえいがんねん))に生(う)まれ1181年(養和元年(ようわがんねん))に京都(きょうと)でなくなりました。

清盛は、1180年(治承(じしょう)4年)6月に京都から現在(げんざい)の兵庫区(ひょうごく)福原(ふくはら)に都(みやこ)をうつしました。11月(がつ)26日(にち)にふたたび京都に帰(かえ)るまでの約(やく)6か月間(6かげつかん)、都(みやこ)がこの地(ち)にありました。

また、大輪田泊(おおわだのとまり)(兵庫港(ひょうごこう)のむかしのよび方(かた))を築(きず)くことにも力(ちから)を注(そそ)ぎました。そのために、東南(とうなん)からの風(かぜ)や波(なみ)から船(ふね)を守(まも)るための防波堤(ぼうはてい)として、兵庫区に「経ヶ島(きょうがしま)」という人工島(じんこうじま)をつくりました。

経ヶ島の工事(こうじ)は、1172年(承安(しょうあん)2年)ごろに始(はじ)まりましたが、たいへんむずかしい工事で、完成(かんせい)したのは平家(へいけ)が滅(ほろ)んだあとの1196年(建久(けんきゅう)7年)でした。

工事の成功(せいこう)を願(ねが)うために、お経(きょう)を書(か)きうつしたもの1万部(まんぶ)と一緒(いっしょ)に、いけにえ・30人分(にんぶん)の代(か)わりとして海(うみ)に沈(しず)んだのが松王丸(まつおうまる)(=清盛の家来(けらい))でした。

こうして整備(せいび)された大輪田泊は、清盛時代は宋(そう)(中国(ちゅうごく)のこと)と室町時代(むろまちじだい)は明(みん)(中国のこと)との貿易(ぼうえき)で、国際港(こくさいこう)としての役割(やくわり)を果(は)たすことになります。

清盛たちの別荘(べっそう)があったのは、もとの湊山小学校(みなとやましょうがっこう)の所(ところ)で、「雪見御所旧跡(ゆきみごしょきゅうあと)」の碑(ひ)が建(た)てられています。

また、同(おな)じ兵庫区の切戸(きれと)町には、清盛塚(きよもりづか)があります。

清盛が日本(にほん)の首都(しゅと)(中心地(ちゅうしんち))を兵庫区においたのは、わずか半年(はんとし)間でしたが、この間に今の神戸港(こうべこう)の発展(はってん)の基礎(きそ)が築(きず)かれたといえます。

平敦盛(たいらのあつもり)

平敦盛(たいらのあつもり)は、平清盛(きよもり)の弟(おとうと)、経盛(つねもり)の子供(こども)で、1184年(ねん)(寿永(じゅえい)3年)の源平(げんぺい)一の谷(いちのたに)の合戦(かっせん)で、当時(とうじ)16歳(さい)で熊谷直実(くまがいなおざね)によって首(くび)をうたれました。

源氏方(げんじがた)の直実は、須磨区(すまく)一の谷のあたりで逃(に)げようとしている敦盛をみつけましたが、自分(じぶん)のこども小次郎(こじろう)と同(おな)じくらいの年(とし)ごろなのでかわいそうに思(おも)い、いったん助(たす)けようとします。ところが、後(あと)から源氏が大勢(おおぜい)でかけつけたため、やむなく首をはねた、と伝(つた)えられています。

須磨浦公園(すまうらこうえん)には、敦盛を供養(くよう)するためにたてられたといわれる「敦盛塚(つか)」があります。

また、須磨寺(すまでら)には、敦盛の愛用(あいよう)(いつも使(つか)うこと)したといわれる「青葉(あおば)の笛(ふえ)」が宝物(ほうもつ)として伝(つた)えられているほか、境内(けいだい)(神社(じんじゃ)や寺(てら)の敷地(しきち))にはたくさんの史跡(しせき)が残(のこ)っています。

楠木正成(くすのきまさしげ)

楠木正成(くすのきまさしげ)は、鎌倉時代末期(かまくらじだいまっき)から南北朝時代(なんぼくちょうじだい)にかけての、河内(かわち)(今(いま)の大阪府(おおさかふ)の南東部(なんとうぶ))の武士(ぶし)です。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)にしたがい、赤坂城(あかさかじょう)、千早城(ちはやじょう)で兵(へい)をあげ、鎌倉幕府(かまくらばくふ)をたおすのに手柄(てがら)をたてました。

1336年(ねん)(延元(えんげん)1年)、南北朝時代の動乱期(どうらんき)(世(よ)の中(なか)がみだれ戦(たたか)いなどがおこり不安定(ふあんてい)な時期(じき))、わずか700の軍勢(ぐんぜい)で足利軍(あしかがぐん)と6時間(じかん)も戦いましたが、けっきょくは敗(やぶ)れ、5月(がつ)25日(にち)に一族(いちぞく)とともに湊川(みなとがわ)でなくなりました。

これが「湊川の戦い」で、湊川神社(じんじゃ)は正成のほか17人(にん)をまつるために、明治(めいじ)に入(はい)ってたてられた神社です。

水戸黄門(みとこうもん)として知(し)られている徳川光圀(とくがわみつくに)によってたてられた「嗚呼忠臣楠子(ああちゅうしんなんし)の墓(はか)の碑(ひ)」も境内(神社や寺(てら)の敷地(しきち))にあります。

勝海舟(かつかいしゅう)

勝海舟(かつかいしゅう)は、1823年(ねん)(文政(ぶんせい)6年)に江戸(えど)(今の東京(とうきょう))に生(う)まれた政治家(せいじか)です。

1860年(万延元年(まんえいがんねん))には、アメリカへの使節(しと)(国(くに)の命令(めいれい)で外国(がいこく)に派遣(はけん)されるひと)について、咸臨丸(かんりんまる)を指揮(しき)し、太平洋(たいへいよう)を横切(よこぎ)りました。

1863年(文久(ぶんきゅう)3年)、14代将軍(しょうぐん)徳川家茂(とくがわいえもち)が視察(しさつ)(実際(じっさい)に行(い)って調(しら)べること)のために中央区(ちゅうおうく)の小野浜(おのはま)に立(た)ちよった時(とき)に、勝海舟が案内役(あんないやく)をつとめ、船(ふな)たで場(ば)が整(ととの)っているこの地(ち)に「海軍操練所(かいぐんそうれんじょ)」を建(た)てることを申(もう)し出(で)てゆるされました。海軍操練所とは、海軍兵学校と、海軍機関(かいぐんきかん)学校と造船所(ぞうせんしょ)をあわせたような学校で、1864年(元治元年)5月に開(ひら)かれ、坂本竜馬(さかもとりょうま)、陸奥宗光(むつむねみつ)(後(のち)の外務大臣(がいむだいじん)などやく200人がここで学(まな)びましたが、幕府に反対(はんたい)する人たちも入学(にゅうがく)させたため、1865年(元治2年)には、閉(し)められました。

1968年(昭和(しょうわ)43年)に建てられた海軍操練所があったことを示(しめ)す記念碑(きねんひ)は、1991年(平成(へいせい)3年)に工事(こうじ)のため一時、海運会社の倉庫(そうこ)に保管(ほかん)されていましたが、2001年(平成13年)にふたたび元(もと)の場所にもどりました。

また、勝が建てた「海軍営の碑」は、1915年(大正(たいしょう)4年)に諏訪山公園(すわやまこうえん)の中にうつされました。

兵庫区にある「和田岬砲台(わだみさきほうだい)」も勝海舟の設計(せっけい)によって1864年(元治元年)につくられています。工事費(こうじひ)は、今のお金にすると約(やく)25億円(おくえん)かかっています。

この砲台も、国が開かれ外国船(がいこくせん)が日本にやってくるということにたいして、大阪湾(おおさかわん)もふくめたこのあたり一帯(いったい)を守(まも)るためのもので、勝海舟が日本の海軍にはたした役割(やくわり)は、大(おお)きいといえます。

※船たで場...船底(ふなぞこ)が腐(くさ)るのを防(ふせ)いだり修繕(しゅうぜん)する施設(しせつ)。このころ神戸港には網屋吉兵衛(あみやきちべえ)がつくった評判(ひょうばん)の船たで場があった。

高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)

高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)は、1769年(明和(めいわ)6年)に淡路島(あわじしま)の五色町(ごしきちょう)に生(う)まれ、船乗(ふなの)りをめざして24歳(さい)で兵庫区(ひょうごく)に出(で)てきました。

その後、「辰悦丸(しんえつまる)」を作(つく)り、船主(せんしゅ)として西出町(にしでまち)に店(みせ)をつくりました。

兵庫で酒(さけ)・塩(しお)・綿糸(めんし)をつみ、酒田(さかた)(山形県(やまがたけん))で米(こめ)を買(か)い、それを函館(はこだて)(海道(ほっかいどう))に運(はこ)んで商売(しょうばい)をし、のちに函館にも支店(してん)をもうけました。

そして、当時は未開(みかい)の地(ち)だった国後島(くなしりとう)や択捉島(えとろふとう)へも渡(わた)ることに成功(せいこう)し、造船(ぞうせん)や開拓(かいたく)(=あれた土地(とち)や山林(さんりん)を開いて、耕(たがや)せるような土地にすること)、海岸(かいがん)の埋(う)めたてなどを行(おこな)い、この地の発展(はってん)に力(ちから)をそそぎました。

また、日露(にちろ)(日本とロシア)の間で争(あらそ)いがおこりそうになった時には、自分(じぶん)の身(み)を投(な)げだして解決(かいけつ)に乗(の)りだしています。

病気(びょうき)のために生まれた五色町にもどっていましたが、その間にも自分の財産(ざいさん)を投(とう)じて、津志浦(つしうら)、新在家(しんざいけ)などの波止場(はとば)を修理(しゅうり)するなど郷土(きょうど)の開発(かいはつ)にもつくしました。

1827年(文政(ぶんせい)10年)になくなりました。

西出町の嘉兵衛の家(いえ)のあった場所(ばしょ)ははっきりしませんが、もとの入江(いりえ)小学校のあとのあたりであることはたしかです。

1953年(昭和(しょうわ)28年)に、地元(じもと)の人たちによってたてられた「高田屋嘉兵衛顕彰碑(けんしょうひ)」は、今は竹尾稲荷(たけおいなり)神社(じんじゃ)にうつされています。

谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)

谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)は、1886年(ねん)(明治(めいじ)9年)に東京(とうきょう)に生(う)まれた作家(さっか)です。

1923年(大正(たいしょう)12年)に、関東大震災(かんとうだいしんさい)からのがれ、芦屋(あしや)、京都(きょうと)に身(み)をよせ、次(つぎ)の年(とし)に東灘区(ひがしなだく)の本山町(もとやまちょう)、本山第一小学校(もとやまだいいちしょうがっこう)の東(ひがし)どなりにうつり住(す)みました。

その後(ご)、何回か(なんかいか)のひっこしをした後(あと)1928年(昭和(しょうわ)3年)に、岡本(おかもと)の梅林(ばいりん)の近(ちか)くにたてた家(いえ)が「クリセル邸(てい)」で、「乱菊物語(らんぎくものがたり)」や「吉野葛(よしのくず)」などがここで書(か)れました。

1936年(昭和11年)に、住吉東町(すみよしひがしまち)にうつり「春琴抄(しゅんきんしょう)」を完成(かんせい)させ、代表作(だいひょうさく)「細雪(ささめゆき)」も書いています。また、この時(とき)の家(いえ)は「倚松庵(いしょうあん)」として1990年(平成(へいせい)2年)から公開(こうかい)されています。

「細雪」には、昭和13年の阪神大水害(はんしんだいすいがい)のことがくわしくえがかれています。

1985年(昭和60年)には、生誕(せいたん)100年を記念(きねん)して、東灘区に二つの文学碑(ぶんがくひ)がたてられました。

孫中山(そんちゅうざん)

孫文(そんぶん)はべつの名前(なまえ)を孫中山(ちゅうざん)といい、1866年(ねん)に中国(ちゅうごく)で生(う)まれ、中国革命(かくめい)の父(ちち)とよばれています。

11歳(さい)でハワイに渡(わた)って、ヨーロッパなど西側(にしがわ)の国の近代教育(きんだいきょういく)をうけました。そして、1911年に清朝(しんちょう)(むかしの中国)を倒(たお)してアジアで最初(さいしょ)の共和国(きょうわこく)(1人の意見(いけん)で決(き)めずにたくさんの人(ひと)の意見(いけん)で決(き)めるようにした国(くに))を生(う)んだ「辛亥革命(しんがいかくめい)」をおこしました。

1895年(明治(めいじ)28年)に貨物船(かもつせん)にのって初(はじ)めて神戸(こうべ)に入(はい)っていらい、何度(なんど)も神戸をおとずれています。

1924年(大正(たいしょう)3年)孫文がきた時(とき)のかんげい会が開(ひら)かれたのが「移情閣(いじょうかく)」で、その後(あと)1984年(昭和(しょうわ)59年)から「孫中山記念館(きねんかん)」として生(う)まれかわりました。

孫文は、革命(かくめい)をなしとげないまま、北京(ぺきん)で59才(さい)で亡(な)くなっています。

小磯良平(こいそりょうへい)

小磯良平(こいそりょうへい)さんは、1903年(ねん)(明治(めいじ)36年)に神戸市(こうべし)で生(う)まれました。

神戸二中(こうべにちゅう)(=現在(げんざい)の兵庫高校(ひょうごこうこう))から、東京美術(とうきょうびじゅつ)学校西洋画科(がっこうせいようがっか)に進(すす)み、洋画(ようが)を学(まな)び、1927年(ねん)(昭和(しょうわ)2年)に首席(しゅせき)(第(だい)1位(い))で卒業(そつぎょう)しました。

1928年(昭和3年)から2年間(ねんかん)フランスで勉強(べんきょう)し、帰国後(きこくご)もつぎつぎに展覧会(てんらんかい)に入選(にゅうせん)するなど活躍(かつやく)し、注目(ちゅうもく)されました。

1953年(昭和28年)からの18年間(ねんかん)は、東京芸術大学(とうきょうげいじゅつだいがく)の教授(きょうじゅ)として、後(のち)に続(つづ)く人たちの指導(しどう)にあたりました。

生涯(しょうがい)神戸(こうべ)にアトリエをかまえ、1988年(昭和63年)に、85才(さい)で亡(な)くなりました。

初期(しょき)から晩年(ばんねん)まで、確(たし)かなデッサン力(りょく)に支(ささ)えられた女性像(じょせいぞう)や室内(しつない)を描(えが)いた作品(さくひん)の数々(かずかず)は、今(いま)でも広(ひろ)くたくさんの人をひきつけ、親(した)しまれています。

1974年(昭和49年)には、東京の「赤坂迎賓館(あかさかげいひんかん)(とくに外国(がいこく)からの大切(たいせつ)なお客(きゃく)さまをむかえて歓迎(かんげい)する所)」の壁画(へきが)を制作(せいさく)しています。

1983年(昭和58年)には、「文化勲章(ぶんかくんしょう)」と「神戸市名誉市民(こうべしめいよしみん)」を受(う)けています。

小磯良平さんが亡くなって4年後(ご)の、1992年(平成(へいせい)4年)には、六甲(ろっこう)アイランドの緑(みどり)がいっぱいの公園の一角(いっかく)に、「神戸市立(しりつ)小磯記念美術館(きねんびじゅつかん)」が開館(かいかん)され、作品(さくひん)の保存(ほぞん)や展示(てんじ)を行(おこな)っていて、いつでも小磯さんの作品に出会(であ)うことができます。