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最終更新日:2022年11月9日

兵庫区今昔まちかど史

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兵庫区出身の歴史家田辺眞人園田学園女子大学名誉教授の歴史エッセイを掲載しています。

1.豊かな歴史を秘める会下山

天平19年(747)の法隆寺の古記録に、同寺が宇奈五岳(うなごだけ)という山を所有していたとある。記録によるとこの山の東は弥奈刀川(みなとがわ)、南は加須加多(かすかた)池、西は凡河内寺山(おおしこうちのてらやま)、北は伊米野(いめの)と万葉仮名で記されている。東に湊川、北に夢野があるのなら、会下山(えげやま)のことだと想像がつく。市立神港橘高校の南麓にかつて皿池(さらいけ)という池があり、その名の薬局もあった。1300年前にはカスカタ池といったのだろう。宇奈五岳の西に凡河内という豪族にまつわる寺のある山が記されているのだが、今、会下山西方に古代からの寺院はない。しかし、会下山の西、二つ目の谷筋には江戸時代に寺池という溜池があって、それが町名になっている。この寺池町の北、丸山中学付近から奈良時代の瓦が出土し、その北東に房王寺(ぼうおうじ)という地名が現存する。これらを凡河内寺の遺跡や遺物だと考えると、奈良時代に法隆寺領だった宇奈五岳を、今の会下山と断定していいだろう。

昭和45年に会下山から、松田均氏がサヌカイトの剥片で作られた国府型ナイフを見つけている。市内最古の旧石器だ。会下山は中世に湊川の戦いに際して楠木正成が陣取ったとされるから、兵庫で最も長い歴史を持つ場所はこの山だとも言える。
私は昭和27年から二年間、この山の名を冠した会下山幼稚園に通った。当時の会下山は今のようには整備されておらず、山頂部はなだらかな小丘が連続して、中央部に東郷平八郎筆の楠公陣所の碑と遭難した船員の慰霊碑とが小さな城址のように存在していた。南西の低い一画は月面のクレーターのような窪地が沢山あって、崖の断面で粘土を探す子供やお尻の下にムシロの断片などを敷いて丘の斜面を滑り降りる子供たちが歓声をあげていた。民家に隣接する山の東方には熊笹が密生していて、松本通の方に下る山の東南の中腹には扉を閉した大きな洋館風の建物があったが、それが牧野富太郎植物研究所の名ごりだと知るのは、ずっと後のことであった。

兵庫区会下山出土ナイフ形石器の写真 松田均氏が採集した石器(神戸市立博物館所蔵)

※この連載は、無断転載を禁じます

2.震災で消えた聖徳太子

湊川公園の東北の一画に、立派な石の台座に乗った馬の銅像があります。大震災で破損するまでは、この馬の上にりりしい聖徳太子の銅像が乗っていました。

太子創建と伝えられる法隆寺が、奈良時代には今の会下山を所有していたと前回述べました。中世以来の太子信仰や明治以降の学校教育によって聖徳太子への敬慕の念が広まると、神戸では会下山が太子の聖地だと考えられるようになりました。太子を敬い、善行を積もうとする人々は、神戸積徳会を組織し、今の川崎病院西門の西、つまり会下山の東山腹に修養場を設けて、江戸時代から兵庫津(ひょうごのつ)にあった薩摩藩浜(はま)本陣(ほんじん)の門を移築していました。

一方、兵庫の船大工町に住んでいた篤志家の岡田磯八は、大正十年に会下山を望む湊川公園に立派な聖徳太子像を建立し、市に寄贈したのです。騎上で剣を握るその像は、蘇我氏と縁の深い太子が馬子(うまこ)に味方して、物部守屋(もののべのもりや)の軍と戦う、つまり『日本書紀』に初めて登場した時の若い太子の姿でした。大正時代から昭和の初めの兵庫では、聖徳太子は身近に広く慕われる存在でした。私の出た会下山幼稚園でも「花(はな)美(うつく)しい会下山に 楽しく集(つど)う私たち」と歌い始める園歌の三番に「お太子さまを鑑(かがみ)とし 直(なお)い子供になりましょう」という歌詞がありました。

私が同園園児か鵯越小学校入学のころでしたから昭和20年代末だったと思いますが、祖母が「悪いことをする者がおる。聖徳太子さんの刀が盗まれた。銅は値(ね)が高いから」と憤慨していたのを覚えています。湊川公園の銅像の剣が盗難に遭ったのです。

その時から長らく騎上で手持ち無沙汰だった太子像が、震災で破損して、今では馬だけになってしまったのです。積徳会の門も震災で大破して撤去されました。それより以前に、人口のドーナツ化現象と少子化で会下山幼稚園も閉園になり、兵庫の聖徳太子ゆかりのものが無くなりつつあります。

※湊川公園のリニューアル工事に伴い、聖徳太子の馬の銅像は、公園内の兵庫区役所西側に移設されました。

※この連載は、無断転載を禁じます。
 

3.屯田病院と二本松古墳

菊水町10丁目と房王寺町の間で、バス道に北から旧西神戸有料道路が合流してきます。そこは峠のような地形で、西方は苅藻川の、東方は旧湊川の流域の谷筋です。旧有料道路の筋から鵯越交差点の南に続く尾根筋は、旧湊川と苅藻川の分水嶺で、バス道の南から会下山西方一帯は屯田山(とんでんやま)と呼ばれていました。屯田山の南はしの尾根には、昔、松の大木が2本あって、二本松(にほんまつ)と呼ばれていました。
江戸時代の夢野村では、二本松の山上にあった古墳を宝塚(たからづか)と呼んでいました。大昔、ここに高貴な人が葬られ、たくさんの金銀財宝が埋められているといい、村が衰えて家が三軒になるようなことがあったら、この宝物を掘り出して村の復興に当てるようにと伝えられていたのです。
大正2年に結核の治療に関する法律が出されると、神戸市では屯田山に結核療養所建設を決め、大正7年秋に「屯田療養所」が開設されて、困難な状況にあった多くの患者を救うことになりました。俗に「屯田病院」と呼ばれたこの施設は、昭和に入って夢野丘陵に住宅が開発されるようになると、移転が計画され始めました。太平洋戦争中の昭和18年療養所は多井畑の療養所とともに日本医療団に統合され、患者は転院していきました。
屯田療養所の建物は昭和20年の空襲の被害をまぬがれ、残っていました。戦後復興期にこの建物は、空襲で家を失った人々や疎開先から神戸に帰ってきた人々の当座の集合住宅として再利用されました。
鵯越小学校の6年生の時、私はここで生活している級友の家を何度か訪ねたことがあります。昭和35年のことですから、戦後15年も屯田病院の建物は人々の生活を支えていたわけです。その跡地は今、福祉センターになっています。
また、宝塚は昭和2年に配水場が建設された時に発掘され、竪穴石室や副葬品が見つかって、会下山二本松古墳と名づけられ、近年の調査で前方後円墳だったことが解りました。

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