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西区の歴史 中世

最終更新日:2023年9月27日

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中世

12世紀の後半に強大な権力を握った平清盛は、神戸市兵庫区の平野地方にあった福原庄を好み、その南にあった大輪田ノ泊を改修して中国との貿易を進めていましたが、1180年(治承4年)6月には強引にこの福原への遷都を断行しました。

しかしこの年、東国では、源頼朝や源義仲が平氏に対して兵を挙げたため、清盛は11月に都を京にもどしています。翌春、清盛が死に、義仲が京へ進撃してきたため、平家は1183年(寿永2年)に西国に都落ちしました。

しかし、京都に入った義仲は貴族社会と対立し、時の後白河法皇は鎌倉の頼朝に義仲追討を命じました。そこで、頼朝は弟の範頼・義経を義仲追討のために京へ進撃させました。

一方、源氏の分裂を知った平氏は、この機に都を奪回しようと西国から兵庫に上陸し、東の生田の森と西の須磨一ノ谷とに砦を設けて、神戸の地を拠点と定めました。

義仲を滅ぼした義経たちは、その余勢をかって神戸の平氏攻撃を計画。範頼は京から山陽道を西に下って生田の森を、義経は丹波を迂回して加古川筋に出、川を下って播磨灘ぞいに西から一ノ谷を衝くことにしました。戦いは1184年(寿永2年)2月7日。これがいわゆる一の谷の戦いです。

結局平氏は敗れ、源頼朝によって幕府が開かれ鎌倉時代が始まります。この時代に、区域の農村社会はいっそう開発されていきました。

このような農村経済を背景に各地に土豪が成長し、元寇によって幕府の基盤が揺らぐと、彼らは13世紀末以来激しく活躍するようになって悪党とよばれました。平野町花岡山を根拠地にしたという花岡太郎や、楠河内入道(正成の父といわれる)とともに東大寺領大部庄を襲った垂水左衛門繁昌らは、このあたりに勢を張った悪党でした。このような情勢の中で、近江寺・性海寺・太山寺などは、自衛のための僧兵を持つようになりました。

中世になると交通も発展し、兵庫から鵯越を経て三木方面に至る道路が押部谷を横切り、海辺の山陽道と三木地方を結ぶ明石川沿いの往来もさかんになりました。

14世紀に後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を策しはじめると、1333年(元弘3年)西播磨で赤松円心が挙兵しました。この時、太山寺衆徒に赤松への応援を命じた大塔宮護良親王の令旨が今も同寺に伝わっています。

鎌倉幕府が滅亡して建武の新政が始められると、討幕に功のあった赤松氏は勢力を拡大して播磨を支配するようになり、このあたりもその配下に入りました。やがて、後醍醐天皇の政治を不満とする武士におされて、足利尊氏が建武政府に反旗をひるがえし、1336年(建武3年)の兵庫湊川の戦いに勝利をおさめて上洛し、2年後に征夷大将軍となって幕府を開きました。

そこで、後醍醐天皇は吉野に逃れて、南北朝時代が始まりました。この混乱期に赤松氏は足利方に味方して播磨で勢力を拡大しましたが、南朝方の新田義貞の一族にあたる金谷兵庫助は、北区の丹生山明要寺を根拠地として西区の地域にも勢力をのばして、近江寺・性海寺・太山寺などを味方に引き入れました。

ついに、1338年(暦応元年)赤松則村は西方から兵を進めて明石市の和坂でこの南朝方の勢力と戦いました。その翌年には赤松則祐が三木市の志染(しじみ)や押部谷の雄岡山(おっこさん)を経て兵を東に進め、シブレ山や櫨谷城で金谷勢を破って、遂に東播地方を制圧しました。赤松氏は範資の代には摂津守護も兼ね、幕府の四職(ししき)の一氏として権勢を誇りました。

しかし、この赤松氏も6代将軍足利義政の専政に対して将軍を暗殺し、逆に幕府に討伐されてしまいました。1441年(嘉吉元年)のこの嘉吉(かきつ)の乱で赤松氏が衰弱すると、但馬の山名持豊が播磨の守護を兼ねて山陽道に進出しました。

この山名氏はやがて管領細川氏と対立して、1467年(応人元年)には応仁の乱を起こしましたが、これ以後、幕府の弱体化に乗じて各地の群雄は割拠し、戦国時代へと突入します。その頃、西区の地域には福中城(平野町)の間島氏、枝吉城(玉津町)の明石氏、櫨谷城の衣笠氏などが勢力を競っていました。

この衣笠氏は、管領細川氏の台頭によって将軍の権威が失われつつあった1527年(大永7年)、12代将軍足利義晴を櫨谷城に招いて年をこさせたといいます。16世紀半ばになって細川氏に代わって阿波出身の三好長慶が京の周辺・畿内を制圧した後、さらに勢力を西に伸ばそうとして、1554年(天文23年)摂津から播磨に進入し、三木・櫨谷・福谷・枝吉などの城を攻略しました。以後、この地方は三好氏の配下に入りました。

長慶が死ぬと権力は部下の松永久秀に奪われました。三好方は巻き返しを図りますが、1566年(永緑9年)に松永方の布引滝山城(中央区の新神戸駅西北の山城)を攻撃した三好勢の中に播磨衆として、明石・間島・衣笠氏らの名が記録されていますから、西区にいた土豪が三好氏のもとで中央の歴史の舞台にかり出されていたことがわかります。

大塔宮令旨(太山寺蔵)

近江寺・性海寺・如意寺『播州名所巡覧図絵』

櫨谷の衣笠城(谷口義澄氏作図ー『日本城郭大系第12巻』昭和56年3月、新人物往来社刊より)

 

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