KOBEの本棚 第60号

最終更新日:2023年7月27日

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-神戸ふるさと文庫だより-

  • 第60号 平成20年11月20日
  • 編集・発行 神戸市立中央図書館

内容

相楽園 旧小寺家厩舎の写真
相楽園 旧小寺家厩舎

  • 相楽園(エッセイ)
  • 新しく入った本
  • 書庫探訪
  • ランダム・ウォーク・イン・コウベ

相楽園

元町山側、中山手に白塀に囲まれた相楽園があります。ここは、明治20年頃から大正初めにかけて造られた小寺泰次郎・謙吉氏の自宅でしたが、昭和16年に神戸市所有の公園になりました。敷地面積2万平方メートル。大きな池を中心に築山、茶室、名石などを配した回遊式の純和風庭園で、平成18年1月、国の登録記念物になっています。

園内には新旧和洋さまざまな建築物が存在します。北野から移築された旧ハッサム邸、空襲で焼け残り修理された旧小寺家厩舎は、明治期の建築です。江戸時代前期作、姫路藩の御座船だった船屋形もあります。これら3点は国の重要文化財に指定されています。そして一段と目をひく会館は、昭和38年に完成したもので、会議や行事が行なわれています。また、樹齢500年といわれるクスノキやソテツの名木も、雄大な時間の流れを感じさせてくれます。

春は、ツツジ、秋には菊花展が開催されます。園名の由来は『易林』の「和悦相楽」から。その願いどおり、多くの人々の笑顔があふれる憩いの場所になっています。

新しく入った本

すべての犬に里親を!-阪神・淡路大震災1556頭の物語

今西乃子(講談社)

すべての犬に里親を 表紙写真阪神・淡路大震災では、ペットも被災した。未曾有の惨事の中、獣医師らを中心に、ボランティアでの救護活動が始まった。保護した動物は1556頭。安楽死はさせないという信念のもと、里親が必要なすべての犬を送り出すまでの1年4ヵ月。この間の活動と、携わった人々を描いた児童向けノンフィクションである。

人も動物も、命の重さは等しい。人と共生するしかないペットたちに、どんな時でも、たとえ手放すしかなくなったとしても、生きる道筋をつけてあげること。それが彼らを尊重することなのだと、この本は教えてくれる

ひょうご幕末維新列伝

一坂太郎(神戸新聞総合出版センター)

ひょうご幕末維新列伝 表紙写真史跡を巡り、文献を読み、著者が兵庫県内で拾い集めたさまざまな維新史話が58項目にわたり収められている。「神戸鉄道誕生物語」「軍神とマッチ王」・・・。目次にならぶタイトルから誰が登場するかわかるだろうか。

著者の歴史への興味は、神戸に住んでいた小学生当時に手にした『垂水史跡めぐり』から始まり、今日につながっている。兵庫県再発見のきっかけになればという願いがこめられた1冊

源氏物語と明石氏系譜-史実と伝承

中村寿夫

旧明石郡には、『源氏物語』の伝承が多くある。明石入道や明石君の屋形、光源氏の通い道などの史跡もあり、物語が地域に深く根付いている。著者は、伝承をたどり史実を検証した。紫式部が明石の情報をどこから得たのか、また、光源氏の末裔と称したという明石氏の系譜について考察している。

長い間、地元の人々が物語に寄り添って伝承をはぐくんできたことが、貴重な歴史となっている。

オニツカの遺伝子

折山淑美(ベースボール・マガジン社)

「スポーツを通じて社会貢献をしたい」という信念と熱い情熱を持って、鬼塚喜八郎が小さな町工場を神戸で立ち上げたのは戦後間もなくのこと。アシックスという社名の世界的なメーカーに成長した今でも、創業者の精神は脈々と受け継がれている。

日常の何気ない出来事をヒントにした製品開発やマラソン選手のオリンピック秘話などに、プロの技とプライドが垣間見える。

オーケストラ、それは我なり-朝比奈隆四つの試練

中丸美絵(文藝春秋)

指揮者・朝比奈隆は神戸の自宅で阪神・淡路大震災に遭遇し、この日、大阪フィルハーモニーは結成後初めて定期演奏会を中止した。しかし関東大震災も経験していた彼は、平然としていたという。

朝比奈は、大フィルを立ち上げ、世界の音楽史に類を見ない50年余の長きにわたってその常任指揮者を勤めた。この本は、彼の生い立ちや音楽との出会い、さらには、戦中・戦後の苦労と強運など、巨匠の一生を克明に描いている。

華僑文化の創出とアイデンティティ-中華学校・獅子舞・関帝廟・歴史博物館

張玉玲(ユニテ)

華僑文化の創出とアイデンティティ 表紙写真1980年代から、中華街を舞台に、在日華僑による文化活動が活発になった。本書は、そんな華僑文化の中から、中華学校、獅子舞、関帝廟、歴史博物館の四つを文化的シンボルとして取り上げ、華僑の価値観や文化観を考察し、エスニック・アイデンティティを解明しようと試みたものだ。

同じ中華街でも、横浜では文化の担い手のほとんどが華僑であるのに対し、神戸の南京町では華僑と日本人が共同で文化を担っている。横浜と神戸を比較分析しながら、異なる特質とその要因を明らかにしている点も興味深い。

働く人の災害食-神戸からの伝言

奥田和子(編集工房ノア)

働く人の災害食 表紙写真阪神・淡路大震災発生当初、人命救助や災害復旧に取り組んだ人たちは、何を食べていたのか。本書は、これまであまり取り上げられてこなかった、救助活動に携わる側の食事の問題を扱ったものだ。

著者は、消防・病院・ライフライン関係者に、何をどのように食べていたか、聞き取り調査を行った。災害時に望む食品のアンケート調査も行い、災害時に働く人のための備蓄用食事モデルを作成。今後の災害にどう備えるべきか提言している。

また、神戸での対応例と新潟で発生した二つの地震での対応例から、救援物資のあり方や家庭での備蓄の重要性にも言及している。

兵庫の祭

旅行ペンクラブ編(東方出版)

兵庫の祭 表紙写真広い兵庫県の春夏秋冬の祭を追いかけ、発刊に至るまで足かけ3年を要したという労作。「神戸まつり」のような大きな祭から、地域でそっと受け継がれてきた神事まで一つ一つ丁寧に調べ、写真とともに紹介している。ちなみに12月の祭は、香住の「かすみカニ場まつり」、「神戸ルミナリエ」、「赤穂義士祭」。ひとめで兵庫県だとわかる、特色あるラインナップだ。

蘭学者川本幸民-近代の扉を開いた万能科学者の生涯

北康利(PHP研究所)

川本幸民は、三田に生まれ、幕末から明治の初めにかけて欧米の技術をわが国に紹介し、日本の理化学の基礎を築いた人物。その名はあまり知られていないが、「化学」「時間」「空気」「ブドウ糖」といった今日、日常的に使われている言葉を考案。また、ビールの試醸やマッチ、写真機も製作している。才能よりも、向学心と努力こそ重要だという幸民の言葉が胸に響く。

その他の新刊

  • 生還-激戦地・沖縄の生き証人60年の記録 上根保(幻冬舎ルネッサンス)
  • 災害報道-阪神・淡路大震災の教訓から 三枝博行ほか(晃洋書房)
  • 九鬼隆一の研究-隆一・波津子・周造 高橋眞司(未來社)
  • 小高へ-父島尾敏雄への旅 島尾伸三(河出書房新社)
  • 弥生の昔の物語-詩集 永井ますみ(土曜美術出版販売)

書庫探訪 その16

阪神名勝図絵

阪神名勝図会より魚崎の画像
魚崎

本書は、大正期の阪神地域を描いた木版画集です。元々は5点ずつ6回に分けて金尾文淵堂から出版されたものですが、当館のものはそれを1冊の画集にしたててあります。

この画集の基となったのが、大正5年(1916)に大阪朝日新聞で連載された記事。記者や画家達が阪神電鉄沿線や摩耶山、有馬などを訪れて、スケッチとレポートをしたものです。

「神戸波止場」や「神戸市場」など、人々の賑わいを描いた場面もあれば、労働者たちが浜辺で昼食をとる様子を描いた「魚崎」、稲刈りを描いた「住吉」のように、当時の生活がうかがえる場面もあります。また、圧倒されるような大木や山などの自然も描かれています。

不思議なことに、新聞と画集に収められたもので図柄が異なるものがあり、彩色の有無、新聞にだけ掲載されているレポートなど、2つを見比べてみるのも面白いかもしれません。

ランダム・ウォーク・イン・コウベ 60

神戸タワー

湊川の付け替えによって、旧湊川河川敷に新しい土地が生まれたのは、明治38年(1905)のことでした。現在の湊川公園から東川崎町あたりまで続くこの帯状の土地は「湊川新開地」とよばれ、その後急速に発展します。この新開地のシンボルであった建物が2つあります。1つは聚楽館(しゅうらくかん)で、もう一つが神戸タワーです。

聚楽館は、多聞通との交差点の北側にあった劇場です。初代の建物は、東京の帝国劇場を模して大正2年(1913)に建てられました。鉄筋3階建ての本格的西洋建築で、間口32メートル・奥行き45メートル・軒の高さが15メートルという壮大な建物でした。

一方、神戸タワーは、湊川公園内に建っていた塔です。大正13年(1924)に建てられ、当初は新開地タワーと呼ばれていました。高さは90m(海抜100メートル)もあり、東洋一の高さを誇っていました。また浅草の凌雲閣、大阪の通天閣とならんで、日本の三大望楼とも称されました。

タワーの入場料は大人10銭・小人5銭でした。入場料を払ってエレベーターで最上階へ昇ると、神戸市内はもちろんのこと、晴れた日には淡路島から大阪・和歌山方面まで眺めることができたといいます。

初期の神戸タワーの写真建設当初の神戸タワーは、飾り気のないものでした。しかし昭和になってからは、塔の壁面に広告が掲げられるようになります。「ハーブ洗濯石鹸・ベルベット石鹸」(昭和初期)、「阪神電車」(昭和9年~)、「ビオフェルミン」(戦前~戦後)などの広告です。

このうち、昭和9年(1934)に完成した「阪神電車」のネオン広告は工事費が2万円で、ネオンに使用する電気代が毎月1200円でした。総理大臣の給料が月額800円という時代です。三宮までの地下鉄工事が完成したばかりの阪神電車にとっては、おそろしく高額な広告料だったに違いありません。

新開地名物となったネオン広告は、夜の公園を真昼のように照らし、遠く紀淡海峡からもこの広告が見えたといいます。新開地はこの頃、昭和の黄金期を迎えます。昭和8年(1933)頃のこと、聚楽館前の市電筋を横断する人の数は、1時間に2万人もあったといわれています。

しかし、やがて戦争がはじまり、空襲によって新開地の大部分は焼け野原となります。戦後になってからも、元町や三宮が早々に復興を遂げたのとは対照的に、新開地の復興は進みませんでした。人の流れは三宮方面に向かい、新開地の人通りは途絶えていきました。

神戸タワーは、空襲による破壊をかろうじて免れました。しかし建材の劣化によって倒壊の恐れがでてきます。そのため昭和43年(1968)には、神戸市によって撤去されてしまいます。新開地の繁栄から衰退までの44年間を、神戸タワーは100メートルの高さから見守ったわけです。

神戸タワーが撤去された昭和43年は、神戸高速鉄道が完成し、私鉄各社が新開地まで乗り入れるようになった年です。阪神電車はかつて、新開地まで線路を延ばそうとし、神戸タワーに広告を掲げました。その願いは奇しくも、タワーが撤去された年にかなったわけです。

新開地のシンボルとしての神戸タワーを、神戸の人びとは忘れていません。たとえば、湊川公園内には高さ8メートルのカリヨン時計塔が建っています。この時計塔は、かつて同じ場所にあった神戸タワーを模したものです。塔の側面には、往時の神戸タワーの写真も飾られています。

また平成17年(2005)は、新開地の生誕100周年でした。このとき湊川公園では、1万本のランタンによって、長さ70メートルの「神戸タワー」が描かれました。

さまざまな人の努力によって、最近の新開地には活気が戻りつつあります。人びとの目を驚かすような新しい神戸タワーが、この地に復活する日は近いかもしれません。

参考文献

  • 『神戸新開地物語』(のじぎく文庫)
  • 『湊川新開地ガイドブック』(新開地アートストリート実行委員会)ほか

お問い合わせ先

文化スポーツ局中央図書館総務課